「金閣寺」 やっと感想(ネタバレあります)

本日の「金閣寺」、観てきました。
今日は追加席販売で購入したS席(中2階のサイド)。見切れは確かにあるけれど、これが意外にも見やすかった。演出の裏側なんかもちょこちょこ見えちゃうんですが(動くセットの裏に隠れたり着替えたりする役者さんが見えました)、ステージ全体が見え、且つ役者の表情もかろうじて見えるあのくらいの距離感がこの芝居にはベストのような気がしました(といいつつ、前方席は一度もナシなのですけどね・・。)おかげで結構感情移入できました。特に2幕。ぞくぞくしました。(実はこの芝居、これまでの観劇ではそれほど感情移入ができずにいたのです・・。)あ、この舞台おもしろいかも・・と4回目の観劇にして初めて思いました。(席のせいなのか、芝居自体がよくなってるのか?)
2幕の溝口が金閣を出奔する列車の中。走馬灯のように溝口の周りを駆け巡る過去。死者達の一様に穏やかで美しい思い出。それを断ち切るように、金閣の幻影によって無理矢理向き合わされる現在の溝口を取り巻く相容れない人達との苦い瞬間。(あのシーン、動きも含めて素晴らしいと思います。その後の胎児のところはネライ過ぎな気がしてちょっと興醒めなのだけど。)そこから金閣を燃やそうと決意、母ちゃんとのやりとり、禅海和尚との対話に救われたような気持ちになる溝口・・どれも心の機微のようなものが感じられる丁寧な演出。それらを経て、ラストに至るまで、息を飲むような緊張感と妙な興奮に気圧されっぱなし。
原作にもある、金閣を燃やす手はずを整えた時点で(火をつけるまでもなく)満足して恍惚となる様子、これまでにない至福感に酔いしれる様子、あんな風に丁寧な描写されてたんですね。遠くの席では気付きませんでした。
そしてその後の金閣に火を放つ際の「羅漢に逢うては羅漢を殺し・・・」の気迫。
ラスト、燃える金閣を見つめて、溝口が「生きよう」と心を決めるところ。今日は、たっぷりと間を取ったあと、溝口が乾いた笑いをもらしながらふらふらと客席に下りて来るという感じに演出変わってました。繊細で、他の多くの人達が要領良くやってるようには上手く自分の人生を自分のものにできなかった溝口が、一連の“行為”で何かを諦めて何かを受け入れて、こっち側にやって来た感がより伝わった演出になってたなーと思いました。
(溝口の、金閣寺に取り込まれ、かと思えば拒まれ、隔てられて尚、消えるどころか増していく金閣への畏怖、憧れの念。自問の日々の後に辿り着いた、開かれるため、生きるために自分の手で金閣を取り込もうとする彼の狂おしい程の熱狂が溝口の全身から発散されているかのようでした。特に“畏れ”の表現がものすごいなーと鳥肌立ちました。)
初見の時は、ただ原作をかいつまんだだけのような単調な脚本に違和感を感じ、しかもその朗読に合わせて場面をつけただけのような(まるで紙芝居のような。下手なPVのような。)手法に、芝居全体が冗長だと感じていたのです。が。何もない空間に、人の力で肉体でアイデアで、動かし作り出すセットと、光と影が生み出す美しく素晴らしい幻想的な世界。積み上げられた稽古の賜物である寸分の狂いもない見事に完璧な世界。コレを見せるがためのストーリーだと思えば、あーなるほど、そういうタイプの芝居というのもアリなのかと納得せざるを得ないなーと。舞踏集団の無駄のないしなやかな剛柔交えた動きと、限りない想像力の勝利だなーと。今日観て、そう思いました。 KAATはもう明日が楽なんですね。気付けばあっという間でした。ところで今日は蜷川氏が観劇してました。(あと岡田君も)
 
ちなみに。初見でももちろん悪い印象だけでなく、ミュージカル畑の演出家の本領発揮とばかりにステージいっぱいに台詞でなく体を使って舞踏のように表現するその辺りのアイデア・演出力(寺での厳格で単調で統制のとれた修行、それに段々溶け込む溝口とか)、亜門氏ならではで面白いなーとか、メインの役者が一様に役にぴったりで、しかも聞き心地のいい良い声で皆さん舞台向きだなーなんてことも思ってました。溝口のドモリもわざとらしくなりすぎず(裸の大将のぼ、ぼ、ぼく・・みたいなのを想像してたんで)まさに内界と外界の間の扉が錆び付いていると苦悩する様子が見て取れるなーと感嘆したり。・・という感想でした。